祇園城(栃木県小山市)

 
祗園城は小山氏により鎌倉時代に築かれたというが、時期ははっきりしていない。
 小山氏は佐野氏と同じく、藤原秀郷の子孫で、鎌倉期には小山に領地を持っていた。
南北朝の騒乱では小山朝氏は南朝方に属したため勢力が衰え、小山氏が勤めていた下野守護職は宇都宮氏に奪われ、さらに一族が分裂し、朝郷の弟氏政が北朝に属して争い家督を嗣いだ。
 下野守護職と所領を巡る宇都宮氏との対立は裳原合戦を招き、鎌倉公方足利氏満の介入を招き小山義政は降伏した。

しかし、義政は祗園城からより堅固な鷲城を修復して再度反抗したため鎮圧された。
この2度にわたる乱を第一次及び第二次小山義政の乱というが、それにも懲りず3たび反抗して今度は完全に滅亡に至った(第三次小山義政の乱)。

 しかし、鎌倉公方足利氏満は小山氏の分家、結城氏より結城基光の子、泰朝に小山氏を嗣がせた。
一方、奥州に逃亡した小山義政の子、若犬丸は至徳3年(1386)、突如祗園城に戻り挙兵したが敗れ、小田孝朝を頼り逃れた。
若犬丸を匿った小田孝朝は嘉慶元年(1387)常陸難台山城に篭城したが嘉慶二年(1388)に落城、若犬丸は再び奥州へ逃れ、応永4年(1397)に会津にて自刃した。
これを小山若犬丸の乱といい南北朝の騒乱の最後を飾る戦いでもあった。
 永享12年(1440)の結城合戦では、一族は分裂し、小山広朝は結城方に組したが、小山持政は幕府方に組みした。
鎌倉公方が古河に移ると、小山氏は結城氏とともに古河公方を支えた。

二代目の古河公方足利政氏は子、高基と対立し小山氏もこれに巻き込まれる。
小山氏は政長の後は結城政朝次男の高朝を養子に迎え、高朝は兄結城政勝とともに宇都宮氏との抗争や那須氏の内紛に出兵した。
天文16年(1547)結城政朝が死去すると宇都宮俊綱が小山領に侵攻したが、結城政勝、小山高朝兄弟はこれを破っている。

 永禄2年(1559)、結城政勝が急死すると、小田氏治が結城領に侵攻したが、小山、水谷、真壁の援軍を受け、撃退し小田領の海老ヶ島城を奪った。
結城氏は小山高朝次男の晴朝が嗣いだ。

 永禄3年(1560)以後の上杉謙信の関東進出以後は、小山氏も周辺の大名同様、上杉、北条の間でころころ帰属を変えて、一族を守ろうとする。
このため、双方から攻撃を受け、降伏、復帰を繰り返す。
上杉氏の侵攻がなくなると北条対佐竹の対立となる。

 天正2年(1574)、北条軍の攻撃により祗園城は落城し、小山秀綱は佐竹義重を頼る。
この北条軍の攻撃には秀綱実弟の結城晴朝も加わっていたという。祗園城は北条氏の北関東攻略の拠点として拡張され、北条氏照の管轄下となった。
小山氏は祗園城奪回の作戦行動を起こしたが復帰はならず、天正10年(1582)、甲斐の武田氏が滅亡により関東に入った滝川一益の調停でようやく祗園城は小山秀綱へと返還された。

  しかし、滝川一益が関東から去ると、小山秀綱は北条氏の配下となり、最後は小田原の役で北条氏とともに小山氏も滅亡する。
 元和2年(1616)、本多正純が祗園城主となったが、元和5年(1619)移封となり、祗園城は廃城となった。

 祇園城の遺構は公園となっているため非常に良く残っている。
城は思川東岸の川に沿って南北に長い丘に築かれた連郭式の城郭であり、思川からの比高は20m、東の小山市の市街地からは8m程度である。
城域は南北500m、東西200mほどである。

この城は、どの郭が本郭であるか混乱しており、文献により本郭の位置が異なる。
 現地を見れば東側、北側に土塁がある一番南の郭の防御が厳重であり本郭と思える。

ただし、本郭の南が城外であるのもおかしい。これに対しては、南に位置する長福城、鷲城が出城としての機能があったとすれば一番南の郭が本郭であっても不思議ではない。
おそらく小山氏支配の時代と北条氏支配の時代で郭の役割が違ってきているのかもしれない。
現在、見られる姿は北条氏により整備されたものであろう。

 本郭の北には堀切を隔てて、方40m四方の「馬出」がある。
この西側は思川の断崖、他の3方には堀がある。ここを本郭とする説もあるが土塁もなく狭すぎる。
この郭を覆うのが二郭であろう。東側と北側には土塁があり、南東端には櫓台がある。

なお、本郭と二郭を断ち切る堀切がかつての結城道だとも言われており、城内を街道が通る「街道を扼する城」の性格もあったと思われる。
 二郭の崖に面した側に、堀切状のくぼ地があり、その下に舟着場があったと考えられる。

思川沿いに3つの城郭が並ぶことから、3城は川の水運で結ばれていたのは間違いないが、水運は軍事的ばかりでなく民間の流通面でも重要な役割を果たしていたものと思われる。
何と言っても当時、舟は陸送に比べ10倍以上の荷物を運搬できる大量運搬手段であった。
この点は水谷氏の五行川沿いに並ぶ久下田、伊佐、下館3城も良く似ている。(ただし、小山の3城は距離が近く、防御的には相互に出城の関係にあり、3城1組の城、東方の防御を担う中久喜城も入れると4城1組の城郭と言えるかも知れない。)

思川を下流に行くと古河城、関宿城に至り、北条氏の北関東侵攻に際しても大量の物資の輸送が可能な水運の重要性を想像させる。
これは平坦で広大な関東平野であったからこそ成り立ったものであろう。
北条氏の関東制覇も河川水運支配による物資、兵士の大量輸送、展開という手段で成された要素もあると思われる。

 結城道が貫通していることも考えると、交通、物流を押さえる城という機能が優先されていると思われる。
 二郭の北には大きく深い堀切を隔てて三郭が展開する。
三郭の北にも堀切がある。
城の東側はそのさらに東の小山駅側より低く、水堀があったと言われる。
 この城は何度も落城を経験しているため、防御性の優れた城ではないという評価は実績が証明している。
しかし、交通、物流を押える城と捉えれば城の性格がはっきりしてくる。

本郭東側 道は水堀跡 二郭南東端の櫓台。 二郭内。盛上りは櫓台跡。 馬出と二郭間の堀。
本郭(左)と二郭間の堀、
かつての結城街道であったという。 
本郭内、公園となっている。 本郭から望む思川と鷲城(中央右手) 本郭 北の土塁。高さ3mほどある。
二郭西側。船着場への降り口。 二郭東から馬出を見る。 二郭北側の土塁 二郭と三郭間の堀。幅30m、深さ10mはある。

鷲城(栃木県小山市外城)
 
鷲城も築城時期は明らかではない。応安5年(1372)に小山義政は武蔵国太田荘の鷲宮を修築しており、この神を本城に勧進して鷲城と名づけたということであるから、この頃鷲城が築城時期ではないかと推定される。
鷲城は小山氏の本城祇園城の2km南西に位置し、祇園城の南を守る出城的な城郭という性格があった。

しかし、単なる出城ではなく主役を演じたこともある。
時は第一次小山義政の乱後の永徳元年(1381)、小山義政は祇園城より堅固な鷲城を強化して再度反乱を起こす(第二次小山義政の乱)。
この乱は鎌倉公方足利氏満が鎌倉府軍を攻撃に向わせ、六月から七月にかけて木沢河原、千町谷、中河原、粟宮口などで合戦、八月には鷲城の東戸張口で合戦、鷲城の外城及び新城(長福城か)が陥落。

八月末鷲城帳口で合戦、十月十五日にも野戦が行われ、鷲城に火がかかる。
十一月十六日、鎌倉府軍は鷲城の外城城壁を破り内城に侵入、十二月六日には「堀埋」合戦が行われた。
十二月八日、再び義政は降伏、出家隠居し「永賢」と号し、子の若犬丸に家督を譲り祇園城に退去という経過をたどる。
 この乱の後、鷲城は記録に登場しないが祇園城とともに機能していたものと思われる。

城域は非常に大きい。
2つの郭から成り、東西400m、南北600mの城域を持つ。
本郭(内城)の虎口である鳥居から中心部の鷲神社までは200m以上はある。
郭内は非常に広大であるが単純な構造であり、戦国期の城という感じではなく、南北朝時代の城郭といった感じである。
イメージとしては瓜連城に似た雰囲気がある。
鳥居の東は低く、水堀があったと思われる。

途中、北側に土塁と堀があるが、土塁は低くなり堀もほとんど埋まっている。
中心部鷲神社本殿の周囲には土塁はなく、北側から西側にかけて思川が流れる。
本郭からは思川に下りる道があり、かつては船付き場があったと思われる。
素晴らしい遺構が残るのは神社から南に下りた所の堀と土塁である。
南側の土塁は石神城や額田城にある堀を挟んで郭の外部を囲む大土塁に近い。
 二郭(外城)は宅地化され、最外郭部に土塁や堀の痕跡があるという。
本郭(内城)東の虎口

本郭(内城)南下の堀と土塁。

本郭南下の堀と土塁。
堀幅は10m、土塁高さは3〜4m。

本郭東の土塁と堀跡

長福城(小山市八幡町)
小山市街の西を流れる思川沿いに祇園、長福、鷲の小山氏の3城が並ぶ。
祇園、鷲両城がかなりの遺構を残しているのに反し長福城はほとんど市街化されてしまい、遺構らしいものはない。

小山二中のグランド付近に主郭があったと推定されるが、西側の思川に面し、草に埋もれ50m位にわたって両側に土塁を持つ堀が残る。
その南側の児童公園に城址碑が建つ。
この土塁から西側の思川までの間は30mほどあり、川に面する部分は崖である。
もしかしたら川との間に主郭があり、西側は川の浸食で崩落してしまった可能性もある。

祇園城や鷲城に比べたら規模は小さく2郭程度からなる城ではなかったかと思う。
築城時期は明らかではない。小山義政の乱のうち、永徳元(1381)年の乱で小山義政勢を足利氏満方が攻撃するが、鷲城の外城と「新城」が落城したとの記録があるが、この「新城」が長福城を指すのではないかと推定されている。
おそらく乱を起こすのに当って築いたのであろう。
この祇園、長福、鷲の小山氏の3城のうち、長福城は最も無名であるが、祇園、鷲が両翼を担う小山氏の拠点城郭であり、戦国時代後期も長福城は両城の出城でもあったのであろう。

土塁?工事の残土という説もあるが? 西を流れる思川。
この部分は崩落している可能性がある。
城址の碑。右の林が土塁跡。

曲輪(小山市神山)

曲輪という名前自体がすごい。
八戸の根城という名前も感心したが、それ以上の単純な名前である。こんな城はないだろう。

遺構は高さ4mの土塁が80m続くだけである。
場所は小山駅の南、東北新幹線の高架が国道50号と交差する200mほど北側で、東北本線の線路の東側である。
道が狭く結構分かりにくい。
トイザラスに車を置いて、西に歩くのが最良であろう。

この館は小山氏初期の館跡といい、200m四方の大きさがあったというから、完存していたら足利氏館位の規模はあったことになる。
線路側が郭内になるという。
昭和初期までは線路の西側にも遺構が存在していたというが、宅地化の波に飲まれて消滅。
結局残ったのがこの土塁部分のみという。
残存土塁の南端。高架は東北新幹線である。 この土塁は結構巨大である。しかしこの部分しか残存していない。
城址碑が建ち、かろうじてここに城郭があったことが分かるだけである。

中久喜城(小山市小田林)
小山市街の東、茨城県結城市との境付近にある平城。
東に国道4号が走り、南に国道50号線が走る比高5m位の丘にある。
なんと城址の真ん中をJR水戸線が走っている。

城址付近は畑と宅地になり、城郭遺構のかなりの部分は破壊され、往時の姿を復元想像することは難しくなっている。
城郭遺構は点在した状態になっているが、JR水戸線の南側の低地に面した部分に土塁と堀がきれいに残っている。
城域は結構広かったものと思われる。

JR水戸線の北側にも一部遺構が残る。
今の姿を見た限りでは全く要害性は感じられない。水田地帯にある微高地にあるに過ぎない。
しかし、当時、周囲は全て沼地であったと思われ、船での往来も不可能であったと言われる。
このため、今の姿以上に想像以上の高い要害性があったのであろう。

少し東にある結城城もほぼ同じ立地条件であり、沼地の要害性は結城合戦が実証している。
築城時期については良く分かっていないが、小山氏が築いた城であったと考えられ、祇園城(小山城)の支城として祇園城の東を守る役目と当時城の北側を通っていた街道筋を監視する役目があったものと思われる。
当然、仮想敵は結城氏であろう。

その証拠に結城城側の東に現在水田となっている沼地が広がり、堀の役目を持たせている。
もし、結城氏の城であったなら、この城の東側の低地を西に見る丘(国道4号の東側)に城を築くであろう。

両者は同族であり、養子縁組等で結ばれているが、時には敵対関係となり緊張する場面も多かったと思われる。
「中久喜」という地名は小山、結城両氏の間の和議の調整を行った佐竹義重、多賀谷重経が、両氏をこの地で会見させ、和議を成立させた証として名付けたものと言う。
それまではこの地は「北山」と言っていた。
南西側から見た城址。手前の田はかつては湿地であった。 水戸線の線路北に残る土塁。

上杉謙信亡き後の戦国末期天正年間には、北条氏の攻勢が強まり、小山氏が北条方になる。
一方、結城氏は北条、反北条の間で揺れるが、最終的には佐竹氏、宇都宮氏に組する。

この頃は中久喜城付近が北条方と反北条陣営の境界であったと思われるが、城自体は結城氏のものであったようである。
天正18年(1590)年、小田原の役で北条氏が滅ぶと、結城晴朝は家康の次男の秀康を養子に迎え、中久喜城に隠居する。
慶長8年(1603)に結城秀康が越前に転封されると晴朝も同行し廃城となった。

本郭の東、右側が畑を介し水田となる。 本郭南の二重土塁間の堀底道。 本郭南虎口の土塁。ごみが散乱している。
本郭南虎口東側の櫓台。 本郭南側の土塁を郭内から見る。